8月 第9回 【高橋先生の投稿】
高橋先生の投稿
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たしか「哲学者が科学者に貢献する度合いは、鳥類学者が鳥に貢献する度合いと同じようなものだ」と言ったのは、リチャード・ファインマンだったと思いますが、前回のメールでも触れましたように、このような見解を持つこと自体は、物理学者としての立派なスタンスだと私は考えています。
大槻先生が「量子力学の解釈の問題は不毛の議論」とおっしゃるのも、一つの立派な立場だと思います。実際に、森田正人先生なども同じように物理学者は物理学をやればよいというお考えで、解釈の問題の話になると「そちらは並木さんに聞いてください」とおっしゃっていました。(機会がなくて、結局お話は伺っていませんが。)
ともかく、物理学者はあくまで物理学そのものを発展させるべきであり、その結果、解釈論など必要の余地がなくなるほどの確固たる世界像が見えてくるはずだ、という(楽観的)信念を持つことは、それはそれで物理学者としての一つの立場だと思います。
それに対して、アインシュタインやボーアのように、物理学者が哲学的な解釈論争を繰り広げるという別の立場もあります。これらの二つの立場の相違は、「科学者責任」論争にも似ていて、科学者は研究開発だけやればよいのであって道徳問題に一切関わらないという立場と、科学者も原水爆や兵器製造やスター・ウォーズ計画への参画についても責任を明確にすべきだという立場があります。
このようなタイプの解釈論争や道徳論争は、いくら話し合っても「明確な結論が出ない」という意味では、たしかに「不毛」かもしれません。けれども、そのような論争は無意味で時間の無駄なのかというと、必ずしもそうではなくて、そこから新たに見えてくるものもあるはずで、そのような「哲学ディベート」を私は模索しているわけです(この意味で、オカルトやエセ科学との論争が結果的に「不毛」に終わることとは、本質的に雲泥の差があります)。
ちなみに『理性の限界』が講談社現代新書から出版されたのと同じ6月、講談社ブルーバックスからは、コリン・ブルースの『量子力学の解釈問題』が出版されています。近年のペンローズやツァイリンガーの「オックスフォード解釈」などを見ても、大槻先生のおっしゃるように「量子力学はシュレーディンガー方程式がすべてです。解釈はいりません」と考えている物理学者ばかりではないことが分かります。
要するに、自然界の奥底には、科学者でさえ「解釈」に苦しむ不思議が存在することや、科学者も一個の人間として道徳的判断に悩む点があることを、一般の人々に知らせて一緒に考えるだけでも、大きな意義を果たすことになるのではないかと私は思うのです。今回の『理性の限界』の目的の一部も、そこにあります。この点をご理解いただけましたら幸いです。
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高橋昌一郎
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